銀色に輝く柱
日曜日は涅槃会(ねはんえ)でした。
仏教において悟りの境地で永遠の安らぎの地、
また、人が死後辿り着く最終段階を涅槃といいます。
涅槃会はお釈迦様が入滅した陰暦2月15日に行われる法会で、
我が家の菩提寺では毎年3月の第3日曜に行われ、
3年以内に亡くなった人の法要も兼ねています。
今回、私は初めて参加する事になりました。
風邪気味だったので人にうつさないよう準備を整えていざ出陣。
場所は海の近くの寺院。
涅槃図を正面に残り三方が開けた本殿で、
住職を中心とした僧侶5フォーメーションをかなりの数の檀家が囲んでいます。
私はこの70歳手前の住職の説法が好きで、
ひょうひょうとしているというか、淡々としているというか、
「ま、そんな感じなんですわ」という雰囲気が良いなと。
そんなクールな住職が会では熱かった。
前説を涅槃とは愛!と軽くシャウトして締めると繰り出す読経もにぎにぎしく、
クライマックスに向かうにつれて檀家は煽られ、最後は般若心経の大合唱。
変性意識の集合体に私も気分が高揚してきました。
トランス状態の檀家を包み込むように立体感を帯びる壁の大曼荼羅、
天井から伸びる黄金の珱珞は熱気を受けてさらに輝きを増し、
天蓋を支える両の支柱に巻かれたサランラップさえも鮮やかに見え、
・・ん?サランラップ?
はて、何故に寺の柱がサランラップで包まれているのか。
柱に気を取られている間にライヴは終わり、
5フォーメーションがステージから去って行きました。
ふと周りを見ると先ほどの一体感はどこへやら、
老いも若きも何やらガサゴソと落ち着きがなくなっています。
・・ん?皆さんが手にしているのは?
隣に座っている母に視線を移すと小さめのセカンドバッグを握っています。
中には、はて、何故に大量の1円玉があるのか。
どうしたことだ
気付けばこの場に居る私以外は皆、片手に、両手で、
こぼれんばかりの1円玉を握りしめている。
私の正面で親に支えられて立っている1歳程の幼児さえもだ。
住職がステージに戻ってきた。
そして始まる銀色のアンコール。
150cm程の高さに設置された台座から住職が故人の名前を読み上げれば、
檀家の手から放たれるは銀の弾丸、もといアルミニウムの一円玉が
台座前に置かれた賽銭箱に向かって投げつけられる。
まさかの展開。
荘厳な空気は一転、お祭り騒ぎの様相です。
バッシャン、ジャラジャラ、バッシャン、ジャラジャラ
住職の朗々たる声に呼応し降り注ぐ銀色の硬貨。
バッシャン、ジャラジャラ、バッシャン、ジャラジャラ
賽銭箱周りの六畳程のスペースがあっという間に一円玉で埋まる。
バッシャン、ジャラジャラ、バッシャン、ジャラジャラ
「アリババと40人の盗賊」を思い出すわ。
その上、
イタイ!、痛いんですけど!
後頭部に一円玉がバシバシ当たる。
誰だっ!あきらかに暴投している奴は!
時折投げ込まれる一円玉がぎっしりと詰まったナイロン袋は、
まさにブラックジャックで最前列に緊張感が走ります。
負けじと私も両手いっぱいの一円玉を放り投げながら気が付きました。
柱にサランラップ、これは必要だわ。
すっかり毒気を抜かれた私は、家に帰ると風邪が悪化していました。
「リンを連れて行かないからでち」
うん。カイロが欲しかったです。
「お土産は?」
福餅が2個。
「いいお天気でしゅねぇ」
風がきつかったけど日向はポカポカでしたね。
他の地域でも一円玉を投げるのでしょうか。
それとも祭り好きで派手好みのこの地域独特の功徳なのでしょうか。
大量の一円玉によって生者と死者が近いた事は確かのように思えます。
福餅、美味しゅうございました。
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2010.03.23 | コメント(10) | トラックバック(0) | ピピンと非日常
