ティーガ・ミー・ボルニー・ルーサ
2月28日に我が家の長老風太が永眠しました。
最後の写真は竜胆と一緒。
今年の5月で14歳の大往生です。
おむかえした日、ドイツ犬なのでカッコイイ名前を用意していたのですが、
頭でっかちの毛むくじゃらを見て、ちがうな、と。
強風の日にやってきたので風太。
その和名のおかげか成犬になる頃にはすっかり寡黙になり、
立派なひげの相乗効果で早々におじぃ扱い。
触りたがりの私が無理やり抱っこすると、
フー(やれやれ)と小憎らしい鼻息をつきながらも
付き合ってくれる忍耐強さの持ち主で、
晩年は肝臓を患い寝てばかりでしたが、
最後の日まで家の外で用を足す気力の強さを見せてくれました。
風太、またどこかで逢おう。
身近な動物の死が及ぼす影響は様々です。
以前に鳥さんを病気で亡くした時は、
他の鳥達は大丈夫なの?という強迫観念に付き纏われ、
仕事に行っても午後休をとって帰る日が一週間ほど続きました。
風太はその時がゆっくりと近づいて来ていたので、
心の機能がおろそかになる事はありませんでしたが、
奇妙な喪失感が肌に貼りついています。
私には、死の影響を軽減するために利用している言葉が有ります。
それが、
ティーガ・ミー・ボルニー・ルーサ
クロアチア語で、意味は我が屍を乗り越えよ、だそうです。
20年以上前に読んだ栗本薫の「ぼくらの世界」に出てきた言葉で、
推理作家レックス・スタウトの探偵ネロ・ウルフシリーズのひとつ、
「我が屍を乗り越えよ」から引用しています。
私はこちらを読んでいないので本来の使用方法は知らず、
まったく言葉だけが記憶に刻まれました。
そして、死と対面する度に脳裡にぷかっと浮かび上がってきます。
十代の頃はゴシックな響きに陶酔を伴いましたが、
二十代半ばも過ぎると自分の不安定さに嫌気がさし、
体も心も強くなりたいと思い続けて十数年、
いつのまにか死者の清澄な言葉として捉えるようになりました。
屍は意識が作り上げた生の遺物。
神経が拒否しても生きた体があるならなんとかなる。
生の記憶を携えて、意識の死を乗り越えなさい。
心の補強材料として活躍中。
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読まず嫌いで読まなかった作家でした。そして、読んでもロマンティックで男性主体の感傷に辟易しました。が、麗しくも過剰な装飾の文章が紡ぎだす心理表現は、私の心にもキラキラを塗してくれました。初期の短編集で、表題作は忌憚なく素晴らし作品だなと思い、「リッツくらい大きなダイアモンド」はシュールで馬鹿馬鹿しいが好きかも?ですね。
2010.03.03 | コメント(12) | トラックバック(0) | 未分類
